主観だの客観だの

2012年04月25日 18時49分 - 野田純平

あ、どうも、平塚店の野田です
相変わらずの小難しい話題でも垂れ流そうかと思い筆を取りました
毎度のことながら、読むのに多少労力が必要かと思われますがご了承下さい

  
  
 「客観」というものは、すごく難しいものであると最近感じました
以前は単純に 「客観 > 主観」 のようにに思っており、一般的にも主観よりは客観の方が良いものだとされるシーンも多いように感じます
曰く、主観とは個人の価値観でしかなく得てして自分本位で身勝手なものである
曰く、客観とは万人の価値観を理解している事であり他者を尊重する広い視野の事である
このように捉えられる事があり、実際私が学生の頃はこう教わりました
当時はこの説明に納得はできなかったのですが……
なんにせよ学生当時は主観ではなく客観で物事を捉えるように教わったものです

 しかしながらこの「客観」というものについて深く考えると、何が「客観」であるかがハッキリしていません
単純に「第三者からみて」という事になりますが、それはそれで『第三者の主観』ということにはならないでしょうか?
当事者ではないあらゆる人の主観、その集合体こそ我々が「客観」と呼んでいるものなのかもしれません
主観の集合体が客観であるならば、即ちそれは『主観』どう違うものなのでしょうか

 個人的な考えとして、「客観」には二通りの意味があるのではないかと思っています
合理性や妥当性を重視し、価値観や感情を極力排除した上で言及するもの
つまり客観的意見というものは合理的且つ妥当性を含んだ意見であるという事
もう一つは、自身の考えや個人的視点ではなく他者からもらう評価としての客観性
つまり、自身から「客観的に考えると───」と言うのではなく、第三者から「それは客観的である」という評価を下されて始めて客観と称する
という二種類を意味を内包した単語なのではないかと思っております

 ここで重要なのが、合理的であったり他者視点のものなので客観は主観より優れたものだ、とは言えない事です
主観そのものは感情が起因となって発生するものであり、感情はヒトには欠かせないものです
如何に合理的意見であろうとも、感情を蔑ろにするという事は一概に褒められたものではないと思います
極端な例で述べると、『法に触れなければ何をしてもいい』という考えがどれだけ賛同を得られるものであるか
恐らく一部の人は賛同すると思われますが、それはそれで良いと思います
ですが、だからといって大多数の人が蔑ろにされているという事でもあります
なので単純に合理性(客観)が優れているとは言い難いです

 では何を以て優れているか、というのはあえてここでは書きません
リスクマネージメントやら感情との折り合いやらコストパフォーマンスやら、考えられるものはたくさんあります
それはそれとして、このブログで言いたい事ではないというのが大きいからです(笑)

 さて、ならば主観と客観との折り合いをどうつけるのが大人の嗜みとして差し支えないか考えてみました
その時目にした単語が『俯瞰(ふかん)』です
なるほど、これだと思いました(観、じゃないのが残念ですが)

≪物事を一段高い観点から俯瞰するように、大局的・客観的に捉えること≫

物事を大局的にみる……結局『客観的』に落ち着いてしまうのも残念ですが、この言い方は良いなと思いました
これはかの有名な『空眼の目付け』……あ、いや、そんなに有名でもなかったですね
ともあれ、こういった一段高い観点から物事を見るというのは素敵だなと思いました
主観も客観も、やはりどちらが優れているとかはないでしょうし、それとは別に大局的に見る事も大事なのでしょう
言うなれば ≪バルコニーに立って自分を見る≫ とでもいうのでしょうか、私もこのような物の見方ができるようになりたいなと感じた次第です

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